「氷室神社のしだれ桜が咲いたよね。」から始まる奈良の桜だより。ソメイヨシノが一気に奈良公園を満開の春色に変える中、開花の遅い木が所々に見受けられる。白いリボンがついていたり、[ナラノヤエザクラ]の標識がついている。遅咲きの華やかな八重桜が咲く頃に、まだ少し遅れてそっと白に近いピンクの花を咲かせる。奈良に咲いてる八重桜ではなく、「ナラノヤエザクラ」は、品種名人々が、桜に飽きた頃に咲く小ぶりの八重桜は、「あら、まだ咲いてんの」と目の端をかすめるぐらいなのだが、咲きそめの頃、スマホで、アップにして見てください。可憐で美しい。 

   奈良八重桜の標識
  ナラノヤエザクラの標識
 八重桜を示す白いリボンです。

奈良(ナラ)がついた素敵な八重桜が二種類。

ナラノヤエザクラは、カスミザクラ重弁化したもの。樹勢が弱く、樹齢も短い。接木または、茎の先端部分を培養して増殖(クローン)されている。奈良でしか見られない桜なので、県の花(ナラノヤエザクラ) 市の花(ナラヤエザクラ市章になっています。

ナラノココノエザクラはヤマザクラが重弁化したもの  ココノエザクラも標識、青いリボン、九のタグがつけられている。         トンボ出版・奈良公園の植物より

奈良九重桜        この花の後奈良の八重桜が咲きます。
奈良八重桜
   かすみザクラ

いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 

平安時代の歌人伊勢大輔(いせのたいふ/おおすけ)の歌で、百人一首でよく知られる奈良の八重桜は、東大寺知足院ちそくいん)(正倉院の東の丘)にあるであると、地元研究家の岡本勇治氏、東大植物学者三好学氏が同定し大正12年国の天然記念物に指定された。それを機に奈良県師範学校の校庭に知足院から若木が移植された。(トンボ出版奈良公園の植物・北川尚史より)              時を経て、知足院の桜も師範学校の桜も枯れ、後継の若木が植わっている。 

上記奈良県師範学校はどこにあったか。かって興福寺観禅院大御堂(かんぜんいんおおみどう)の東円堂があり伊勢大輔が歌った奈良の八重桜があったところ、明治維新後、国が興福寺から没収した土地。現在、奈良県庁横のバスターミナルである。道路ぎわの小さな石垣の上に若木と、記念碑と、八重桜古跡の石碑が立っている。         

 若木の奈良の八重桜
   八重桜由来の碑
   明治9年の石碑

上の道は京街道。平城京の東の端      江戸時代大和名所図会巻2より

中世の説話集「沙石集」させきしゅう)に奈良の八重桜の事が書かれている。        昔、興福寺別当が、一条天皇中宮彰子ちゅうぐうしょうし)に望まれて、東円堂の前八重桜掘り起こし京に送ろうとしたところ、これを聞きつけた僧徒が「是程(これほど)の名木を争(いかで)か進(まいら)すべし」京街道、東大寺転害門あたりまで追いかけ、「我が命をかけても」京にはやらん、とひき戻した。このことを聞かれた中宮は、雅ごころのない荒法師集団と思っていた奈良法師たちの桜を愛する心を喜ばれ、「我が桜」となづけた八重桜の為に伊賀国与野庄いがのくに・よののしょう)を「花垣(はながき)の庄」として興福寺に寄進。里人は毎年奈良に来て花垣を結い、花の盛り7日間は花守として宿直(とのい・寝ずの番)をした。

この風雅な物語に続きがある。                           翌年から、興福寺より、花の盛りの「奈良の八重桜ひと枝中宮彰子に献上されることになる。献上の桜を受け取る係は、本来であれば、紫式部だが、この年祖父が三十六歌仙の一人、伊勢神宮祭主・大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ伊勢大輔が新人女房として参内さんだい宮中にしゅっし)。新人教育だったのか、紫式部が大役を譲り、伊勢が受け取った八重桜を中宮に届けると、八重桜で歌を詠めといわれ、見事に詠んだ「いにしえの奈良の都の〜」歌とともに、奈良の八重桜の名前も広く知れ渡ることになる。                参照伊勢大輔集

淡いピンクは咲き初め、白は満開、濃いピンクは散りかけ
   みとりい池のナラノヤエザクラ

ナラノヤエザクラは、現在奈良公園に、おおよそ800本ぐらいあるそうです。

     咲き初め(ピンク)と満開(白色)
     法華寺の奈良の八重桜

宮内庁書陵部しょりょうぶに残る江戸時代の下記「花譜」(花の画集)には、奈良都の名前でナラノヤエザクラが克明に描かれています。

図書寮文庫3 花譜(単) https://shoryobu.kunaicho.go.jp/

楊貴妃桜 (上記アドレス)下記の花譜に描かれています。

7図書寮文庫 花譜(1帖・続2帖・又続1帖・画)のうち続花譜(上)

興福寺の伝説の桜 楊貴妃桜興福寺の僧、玄宗が大切にしていた桜の木であったので、唐の皇帝玄宗の愛した楊貴妃にちなんで、楊貴妃桜江戸時代の絵図では、猿沢池上の方五十二段を上がって左手のところに楊貴妃桜と書き込まれている。大正時代の案内書には枯れたと書かれていて、後に植えられた木もまた姿を消した

    楊貴妃桜 三社池畔の桜
 目の下は猿沢池 楊貴妃桜はこのへんにあったのか

五十二段を上がったすぐ左に「植桜楓の碑」がある。                今私たちが、奈良公園の桜の春を、紅葉の秋を楽しめるのは、江戸末期の奈良奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)の置き土産のおかげです。江戸末期、奈良はバクチをしないのは、大仏様と春日の神様ぐらい、奉行所の牢は満杯状態・・に着任。その識見と善政によって人々に深く敬愛されその川路の呼び掛けで、始まった、桜と紅葉の植樹

上の題字は一乗院門主 下の文と書は川路聖謨
碑の説明文  読んでください。
碑文は漢文で書かれている。説明板は読み下し文。櫻楓之碑がんばって読んで見てください!
佐保川ベリの桜のトンネル
興福寺南円堂下の桜
南大門跡から中金堂を望む

   あと一つの桜風景

     はる きぬ と いま か もろびと ゆき かえり                    

              ほとけ の には に はな さく らしも   会津八一  

 奈良の美しい風景のあるところには、会津八一の歌碑がある。生涯の恋に破れて奈良旅から はじまった、奈良への想い。東京にいながら、心は「はるの陽気の中沢山の人々が行き来をする興福寺は今桜の花が咲いているんだろうな」と想像している。

歌碑は興福寺本坊の道を挟んだ前にある。