三面僧房(さんめんそうぼう)、講堂跡はただ今調査工事中。大仏殿へは、旧正倉院正門前経由で。
道の向こうに背丈を越える石垣が黒く続きます。大仏殿の前半分は回廊に、後ろ半分は石垣に囲まれています。奈良時代、鎌倉時代の大仏殿は全て回廊に囲まれていました。江戸時代再建時、徳川幕府資金不足の為、半分石垣になっています。
石垣脇の道を少し右に降りたところに万葉歌碑が一つ、ポツンと。
わが背子(せこ)と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の うれしからまし あなたと二人で見ていたらどれほどこの降る雪が嬉しく思えたことでしょうか。 新年の雪は豊作の印とか。
大仏殿西側は急に落ち込んだ地形になっています。1度、指図(さしず)堂、勧進所の(かんじんしょ)あたりまで下って、もう1度えぐれている。大仏さまが夜いたずらに両手でえぐられたか。ちょっと不自然な地形のなかに、円形に柵で囲っている所が、鋳造土坑(ちゅうぞうどこう)跡とのこと。
大仏殿入堂口を通り越して中門へ。現在の大仏殿回廊内の建物は江戸時代再建のもの。 中門に少し変わった仏様が。
入堂口でアルコール消毒後回廊左端の拝観券売り場へ。
★大仏殿・法華堂・千手堂・東大寺ミュージアム、それぞれのお堂で受付 各600円
★大仏殿と東大寺ミュージアム両方拝観の場合は1,000円
「大きいね!」回廊に入ってすぐにあちこちに声が上がります。江戸時代の木造建築としては世界一の大きさ。それも、徳川幕府はもとより身分階層をこえた、多くの人々の喜捨(きしゃ・よろこんでする寄附)の力で再再建されました。
東大寺御本尊 盧遮那仏(るしゃなぶつ)が大仏様のお名前。お釈迦様のお姿でもあります。世界を照らす仏、光り輝く仏とも。本来であれば金色に輝いておられます。奈良時代も、鎌倉時代も金色に輝いておられたそうです。でも、江戸時代は、資金不足で銅のままになっています。お顔は江戸時代。肩から下は、鎌倉、室町と補修されています。奈良時代鋳造部分は膝下から蓮弁(れんべん)部分に残っています。
蓮弁上部にはお釈迦様と諸菩薩が描かれ、お釈迦様の頭から雲のようなものが流れ出て広がり、蓮弁下部に描かれている「お釈迦様の全宇宙観」となります。華厳経(けごんきょう)の「蓮華蔵(れんげぞう)世界」のありさまを表したものであると言われています
なんで? 答えは後で!
奈良時代、聖武天皇即位後は、権力闘争、天然痘の流行、凶作、飢餓、藤原広嗣の反乱と、心痛む年月でした。聖武帝は、京、大阪、滋賀と都を遷(うつ)され、京で国分寺・国分尼寺建立の、滋賀で盧舎那大仏造顕(るしゃなだいぶつぞうけん)の詔(みことのり)を出されました。
「動植咸(ことごと)くに栄えむ」と華厳の円融無礙(えんゆうむげ)の世界を望まれ、大仏造立のために「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う人々の協力を求められた。 (東大寺HPより)
★命あるもの、すべて幸せにと願われた聖武帝は、一握りの土、一本の草でも良い、心を込めて「私たちを救ってくださる大仏様」をみんなで作ろうと呼びかけられた。
天平勝宝4年 大仏開眼の儀式が、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)により行われました。この時の墨と筆が正倉院にのこされています。鎌倉時代の開眼は後白河法皇が、江戸時代の開眼は、東大寺別当 観修寺宮二品済深法親王(かんすじのみや にほん さいしんほうしんのう)がこの筆墨で開眼の儀式を行いました。正倉院と東大寺のすごさを感じます。
★開眼
(仏像の眼に墨を入れ仏像を完成させる。仏像に魂を入れる儀式)