三面僧房さんめんそうぼう)、講堂跡はただ今調査工事中。大仏殿へは、旧正倉院正門前経由で。

の向こうに背丈を越える石垣が黒く続きます。大仏殿の前半分は回廊に、後ろ半分は石垣に囲まれています。奈良時代、鎌倉時代の大仏殿は全て回廊に囲まれていました。江戸時代再建時、徳川幕府資金不足の為、半分石垣になっています。

東側と北側の石垣は三笠安山岩(みかさあんざんがん)・何億年も前火山が爆発、その溶岩でできたナンボ重くてかなわん!からついたそう。
西側の石垣は、全て花崗岩。奈良時代、鎌倉再建時の回廊土壇(かいろうどだん)等の転用材かと。
柱の礎石、階段の袖石、など797個と土木史研究の報告書に書かれている。数えて見る?

石垣脇の道を少し右に降りたところに万葉歌碑が一つ、ポツンと。

わが背子(せこ)と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の うれしからまし                 あなたと二人で見ていたらどれほどこの降る雪が嬉しく思えたことでしょうか。 新年の雪は豊作の印とか。                                  

聖武天皇、東大寺建立を強く後押しされた   光明皇后 歌碑
書は、日本画家小倉遊亀(おぐらゆき)。青春時代を奈良で過ごされた方(奈良女高師(ならじょこうし)総代(そうだい)卒業

大仏殿西側は急に落ち込んだ地形になっています。1度、指図(さしず)堂、勧進所の(かんじんしょ)あたりまで下って、もう1度えぐれている。大仏さまが夜いたずらに両手でえぐられたか。ちょっと不自然な地形のなかに、円形に柵で囲っている所が、鋳造土坑(ちゅうぞうどこう)跡とのこと。

遠く勧進所
柵に囲まれた発掘跡
発掘された鋳造土坑と溶解炉   大仏開眼」より
東大寺大仏殿横トイレ          大仏殿回廊内にトイレはありません。拝観時間も意外とかかります。前もってどうぞ

大仏殿入堂口を通り越して中門へ。現在の大仏殿回廊内の建物は江戸時代再建のもの。   中門に少し変わった仏様が。

中門
右手に兜跋とばつ毘沙門天
邪鬼(じゃき)を踏まないで、   地天女(ちてんにょ)の手に乗っておられ

入堂口でアルコール消毒後回廊左端の拝観券売り場へ。

大仏殿・法華堂・千手堂・東大寺ミュージアム、それぞれのお堂で受付 各600円  

大仏殿と東大寺ミュージアム両方拝観の場合は1,000円

「大きいね!」回廊に入ってすぐにあちこちに声が上がります。江戸時代木造建築としては世界一の大きさ。それも、徳川幕府はもとより身分階層をこえた、多くの人々の喜捨(きしゃよろこんでする寄附)の力再再建されました。

     鴟尾(しび)         大棟(おおむね)の端は雨漏りがしやすいので、大きな瓦をかぶせる。その瓦の名前、鴟尾は龍の子供の名前で、水を操る力を持つことから火事よけのお守り
仏教伝来の道
大仏殿前の道の名前です。中央の黒石がインド、次が中国、その次が朝鮮半島の石。外側が日本の石。仏教が伝わった経路です。この道幅と大棟の幅は同じ。溝の前に立つと鴟尾が真正面に見える。大仏殿の屋根の大きさを感じます。
     国宝八角灯篭         回廊の中で、唯一奈良時代国宝遺構。元は金色にメッキされ四面に音声(おんじょう)菩薩が、横笛、尺八、笙(しょう)、銅抜子(どうばっしシンバル?)を奏で、他の4面は獅子が雲に乗る。奈良時代からずっとここに立ってます。

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江戸時代再建時に興福寺別当真敬法親王(べっとうしんけいほうしんのう)から奉納された銅の大香炉が 入り口左に。
観相窓かんそうまど
歌舞伎座や、江戸時代のお寺、お風呂屋さんの屋根によくある、唐破風(
からはふ)の下の4枚の扉は、年2回大晦日の夜と8月15日に開かれて、大仏様のお顔を拝観できます。
前に立つ人々と比べると入り口の大きさが良くわかりますまた見上げた大仏様の大きさにここでもおお!と声が上がります。

東大寺御本尊 盧遮那仏(るしゃなぶつが大仏様のお名前。お釈迦様のお姿でもあります。世界を照らす仏、光り輝く仏とも。本来であれば金色に輝いておられます。奈良時代も、鎌倉時代も金色に輝いておられたそうです。でも、江戸時代は、資金不足で銅のままになっています。お顔は江戸時代。肩から下は、鎌倉、室町と補修されています。奈良時代鋳造部分は膝下から蓮弁(れんべん)部分に残っています。

        大仏蓮弁レプリカ                    28枚の蓮弁はすべて同じ線刻画。当初の線刻部分が残るものもあり、奈良時代の貴重な資料。

蓮弁上部にはお釈迦様と諸菩薩が描かれ、お釈迦様の頭から雲のようなものが流れ出て広がり、蓮弁下部に描かれている「お釈迦様の全宇宙観」となります華厳経(けごんきょうの「蓮華蔵(れんげぞう)世界」のありさまを表したものであると言われています

      多聞天立像       (四天王のうち他は広目天立像だけ)
 西方・虚空蔵菩薩坐像               こくぞうぼさつ            (東方・木造如意輪観世音菩薩坐像)    にょいりんかんぜおんぼさつ
増長天、持国天は頭部のみ

なんで? 答えは後で

奈良時代聖武天皇即位後は、権力闘争、天然痘の流行、凶作、飢餓、藤原広嗣の反乱と、心痛む年月でした。聖武帝は、京、大阪、滋賀と都を遷(うつ)され、京で国分寺・国分尼寺建立の、滋賀で盧舎那大仏造顕(るしゃなだいぶつぞうけん)の詔みことのり)を出されました。

「動植咸(ことごと)くに栄えむ」と華厳の円融無礙(えんゆうむげ)の世界を望まれ、大仏造立のために「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う人々の協力を求められた。      (東大寺HPより)

命あるもの、すべて幸せにと願われた聖武帝は、一握りの土一本の草でも良い、心を込めて「私たちを救ってくださる大仏様」をみんなで作ろうと呼びかけられた。

  大仏開眼筆、墨         大仏開眼・東大寺の考古学よ

天平勝宝4年 大仏開眼の儀式が、インド僧菩提僊那ぼだいせんな)により行われました。この時の墨と筆正倉院にのこされています鎌倉時代の開眼は後白河法皇が、江戸時代の開眼は、東大寺別当 観修寺宮二品済深法親王かんすじのみや にほん さいしんほうしんのう)がこの筆墨で開眼の儀式を行いました。正倉院と東大寺のすごさを感じます。           

★開眼

(仏像の眼に墨を入れ仏像を完成させる。仏像に魂を入れる儀式)

左・鎌倉時代の大仏殿、右・現在の大仏殿横幅が小さくなってます。 なので、四天王立像を全部配置できなくなり2体は頭部だけなのです。
   奈良時代の東大寺模型      左右に高さ100mの7重塔

奈良時代の大仏殿の土壇は赤いコーンの向こう砂利敷の部分まであった。
  明治大修理に作られた鴟尾    昭和の修理の時に取り替えられています。江戸時代は鴟尾ではなく先が長い鳥衾(とりぶすま)が乗っていました。明治初期の写真にも残っています。
        寄木柱            江戸時代には1本で大仏殿用の大柱になる木が無く、真ん中の木に外から木を足して鉄釘と銅の輪っかで止めた寄木柱になっています。ちなみに平成に建てられた興福寺中金堂の柱は、オーストラリアと西アフリカ産です。
  江戸時代の大仏殿計画図    木の板のように見える部分ですが、、採光の加減もありまるで見えません。
         奉納算額(さんがく)                他にもあります。チャレンジして下さい
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)赤い頭巾の仏様。    自分の痛いところとお賓頭盧さんの体の同じところを撫でると治るそうです!

次は 東大寺ミュージアムへ