奈良公園・興福寺を抜けて、右手に春日大社の鳥居を見ながら鹿ととも京街道の横断歩道を渡ると目の前に明治期の洋風建築国立博物館旧本館(仏像館)が優雅な姿を見せる。奈良で最初の洋風建築で、当時の奈良県議会でブーイングにあった建物とは思えないほどしっくりと緑の風景に溶け込んでいる。もちろん重要文化財正倉院の姿をなぞった、国立博物館本館のあるところも含めて、江戸時代までは、興福寺の境内である。旧本館から少し下がった道路側に宝蔵院流鎌槍(ほうぞういんりゅうかまやり)発祥の地石碑がある。この石碑から少し上がったところに石が3枚残されている。井戸跡とのことだ。

建物をよく見ると窓が全て封鎖されている。耐震構造強化のためだそうだ。
三重塔のそばに、鎌槍の創始者、胤栄(いんえい)が大切に祀っていた摩利支天石(まりしてんいし)が残されている
しき石3枚分が宝蔵院の井戸跡と伝えられている。

東金堂のすぐ後ろの丘に花乃井の石碑と石の井戸枠が置かれている。甘美なる冷水で、古今無双の名水と言われていたそうだ。実際の井戸跡は、五重塔の東に抜ける砂利道石が2枚置かれたところだそうだ。

花乃井の石碑
花乃井の井戸枠
本物の井戸跡・・だそうだ

奈良時代の大寺は、特に興福寺平安末治承の大火ほぼ全焼している。現存の鎌倉建築・三重塔、北円堂が興福寺では、一番古い建物になる。東金堂、五重塔は室町建築。でも石造物なら奈良時代のものが残っている。

興福寺五重塔と東金堂
東金堂、五重塔は室町期の建築ではあるが、創建当初の面影を伝えると言われている。
五重塔の石灯籠前の小さな竹囲いの下に奈良時代の石灯籠の基台が残る。
何気に見過ごしてしまうが、現在の石灯籠より優雅な作りに見える。

北円堂

八角形の建物だが、円堂とよばれる。藤原不比等の供養のため、元明、元正帝が建てさせた。崖地に立つ興福寺の西側、一番見晴らしが良く、平城宮を見下ろす位置に建てられている。建物は鎌倉再建。北円堂の主尊弥勒如来日本肖像彫刻の最高傑作無著・世親像。いずれも、運慶とその一族の超国宝仏。四天王も平安時代の国宝。脇侍の法苑林(ほうおんりん)菩薩像、大妙相(だいみょうそう)菩薩像は(室町時代)の重文。 春秋2回の開扉は桜と紅葉の頃、是非おいでを!          ★北円堂の国宝文化財案内  

近鉄駅前、東向き通り商店街の中ほどに興福寺に登る急坂がある。登り切って目の前の北円堂に気を取られ、正面中金堂の朱色の柱に目がゆくと右手の草地は完全にスルーすることになる。光明皇后が、母橘三千代一周忌に間に合わせて作ったと言われる西金堂跡。土壇の上に石碑が残る。このお堂に祀られていた仏像が今、国宝館遷座されている。奈良時代を代表する阿修羅をはじめとする八部衆。釈迦十大弟子光明皇后が間違いなく手を合わせたであろうその仏像群を今目にすることができる幸い。

ひっそりと立つ西金堂跡の石碑
   西金堂跡の土壇
能楽金春流発祥地の碑西金堂修二会、薪の神事から発展した能楽西金堂跡地に近く建てられている。
興福寺本坊前、会津八一の歌碑のそばにさりげに沙羅(さら)の木(夏椿なつつばき)がある。釈迦入寂時に葉が白く変わったそうだ。ただ、菩提樹と同じで、日本では夏椿が、沙羅の代わりをしている。夏椿は5~7月頃に咲く白い花。朝に花を咲かせ、夕方には散る一日花。儚さを表現している「沙羅双樹」と重なる。
大湯屋            もともと湯を沸かすための同じような建物がもう一つあったが、再建されていない。奈良時代はサウナ風呂、この風呂は鎌倉頃のお湯をかぶる風呂。湯釜が二つ残っている。湯船に浸かるのは江戸時代に入ってから。
本坊前の石畳。よく見ると文様が刻まれている。もともと南大門の敷石。大和の大名家が南大門修理の為に献納した石に家紋を彫っていた。これは澤瀉(おもだか)。餅飯殿(もちいどの)通りに入ったら地面の所々にこれを真似てペイントされている。

五十二段側の三条通りの細い歩道を春日大社に向いて歩くと、すぐに土塀に囲まれた菩提院大御堂がある。入口左手に案内板があり、「日本へ法相宗を伝えた第4祖とされている玄昉創建の堂と言われているが、むしろ玄昉の菩提を弔う堂」と解説されている。玄昉は聖武天皇の母藤原宮子病気を回復し、僧正に任じられて内道場(隅寺・現海龍王寺)に入る。その後権力闘争に敗れ、筑紫観世音寺に流され、没した。奈良のピラミッド・頭塔伝説の主である(下図大御堂解説板より)

大御堂は道路から石段を降りて4、5m下にある。しかも鹿よけの柵があるため、境内には入れないと通り過ぎる人が多い柵は、軽く押すと開く。カラタチの垣根が切れると、石蕗つわぶき)の植え込みがある。右手は興福寺子院。前方に十三鐘(じゅうさんしょうこの狭い境内に伝説が三つ。

1つ目は、もちろん、僧玄昉。大唐の皇帝玄宗から紫の衣を与えられ、5000巻の一切経を持ち帰り、聖武帝の母、宮子の鬱病を治し、僧正として、権力中枢に入るが、藤原氏によって筑紫観世音寺に流され、怨霊伝説の頭塔の主とされていた。二つ目は、大御堂の僧が、長谷参りの後、孤児の稚児を連れ帰り育てた。だが稚児は間も無く亡くなり、実は観音様だったお話。稚児観音の写真を小さな額に入れて、入口付近の扉の上に飾られている。
3つ目は、春日神鹿を誤って死なせた少年三作が、石子詰の刑になったとの伝説の塚である。近松門左衛門が、これを浄瑠璃「十三鐘」にし、近松半二が、妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)の中で鹿を殺した父の身代わりに石子詰の刑となるところを救われる、孝行息子三作を演出する。伝説が定着した幕末、奈良奉行として赴任してきた、川路聖謨は、色々調べて、子供の石子詰の事実はなかったと結論している
読む人も少ない大御堂の解説板。
なんじゃもんじゃの木。           ヒトツバタゴ五月の中頃、満開になる。
側によると細い花弁が風に揺れる。濃い緑の中に白い花。

国宝館                    旧食堂跡に食堂の姿で再建された。まさに国宝の宝庫である。狭いお堂の中にひしめき合って、個性豊かな仏像が佇む。長い間ここに通いながら、どこか落ち着きの悪い思いがあった。ようやく最近ああそうかの答えに出会った。ここ、国宝館に仮住まいの仏様は、ほぼ西金堂の国宝仏群なのだと。南円堂、北円堂、東金堂、中金堂の諸仏は、あるべき堂におわします。本来阿修羅の立ち位置は、真ん中ではない。釈迦如来を囲んで、一番外側だ。でも、西金堂再建を望むものではない。一番逢いたい仏像であるし、真ん中の立ち位置は、嬉しい。

国宝館の 国宝文化財案内