京街道に面したこの門を、東大寺の国宝の門と知って通る旅行者はそう多くない。まして、この門の細い脇通路を通って中に入ると、左手に鼓阪小学校があり、突き当たりが、かの有名な国宝・正倉院の校倉がある宮内庁管轄地であることなぞ知る由もない。
京街道は奈良時代の都の東の端の道になる。東大寺は奈良の都の外側に建てられている。 奈良に鉄道が通る以前、目の前の京街道が、京都、江戸方面を結ぶ幹線道路だった。 平安時代末平重衡南都焼討後、奇跡的に焼け残ったこの門は、鎌倉期に改造される。 「大仏殿の落慶に間に合わせるように緊急性をもって行われ、南大門や西大門に先立って工事が行われている。又、建物の格式を上げるため出組みに改造されていることから京街道に対する正面の門として機能した可能性が考えられる」(奈文研・島田敏男氏転害門の調査より) その昔、この門を通って源頼朝が、北条政子が、数万の関東武者を引き連れて、大仏殿供養に参列した。時の流れは、この門を大混雑の大仏殿前の喧騒からは考えられない、見学客の少ない国宝建造物に変えた。
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★ 転害門のなんで?
★聖武天皇が東大寺の守護神として、大分宇佐より八幡様を迎えられた行列を再現する、転害会。その御旅所となった転害門。そのため、しめ縄が張られ、神輿(みこし)を置く為に4つの石が置かれている。なお、しめ縄は4年に一度架け替えられている。 ★石段の穴は、盃状穴(はいじょうけつ)鎌倉以後と言われ人の手であけられたもの。 ★外から見えないが、2回目の大仏殿炎上をおこした松永弾正と三好一族との戦いで、奥の柱に矢じりと、鉄砲の弾が残されている。
★転害門の名前の由来は転害会祭礼当日、畿内、伊賀6ヶ国で殺生を禁じる、「害を転じて活かす行事」から。手掻門、奈良時代は佐保路門、江戸時代は景清門、この門の近くに碾磑堂(てんがいどう・石臼をおいたお堂)があったので、碾磑門と諸説あり。
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東大寺の古地図 山堺四至図(さんかいしいしず)にはこの門は佐保路門と書かれている。 この門からまっすぐ西に行くと、法華寺に、その向こうはもう平城宮跡の東院庭園となる。
この道、南一条大路は佐保路として、万葉集にもよく出てくる。道沿いに多聞城跡、聖武天皇陵・光明皇后陵、大伴家持の屋敷跡(今はホテル)、業平寺、等々遺跡も多い。
また、京街道を少し北にゆけば少しきつめの坂をのぼり、忍性菩薩の伝説を伝える北山十八間戸、レンガ作りのどう見ても洋風別荘の元奈良監獄(ホテルになる予定だそうだが?)、植村牧場、般若寺、奈良豆比古神社
南へ足を向けると急坂を上りながら南都八景の雲居坂、轟橋が見え興福寺に至る。
歴史の時間軸が入り混じるこの地域にあった銀行支店が移転後、平成25年観光案内所になった。トイレも併設されそこにボランティアガイドが常駐して転害門の説明ガイドをしている。もちろん東大寺のことも、西の京の寺々も含めて詳しく、次に行く先の相談にも乗ってくれる
時には、このような 奈良の観光に関連する展示もしている。趣味人がいて、コツコツ作りためていたものだ。左から 三月堂、正倉院外構、大仏殿、南大門柱、興福寺北円堂、薬師寺東塔 等の見事な縮尺模型である。
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/江戸時代の地図は案内所に掲示しているものを、写真に撮らせていただいた。
奈良市きたまち転害門観光案内所 朝10時〜16時 木曜休館年末年始休暇等詳しくは お問合せ 0742 24 1940へ